静岡県の削り節の歴史

 焼津で「花かつお」の生産が始まったのは、1915年(大正4年)からである。日本鰹節協会「鰹節」下巻によると、その始まりは1909年ころで、天秤棒をかつぎ腰にはかりを挟んで海産物を売り歩いていた、岡山県福山の安部和助が、当時はほとんどが肥料となっていた乾鰯を削って売ったところ大当たりとなり、1912年ころには福山に大工場を建設し、生産を機械化して大発展を遂げる。静岡県では1918年(大正7年)〜19年ころ岩渕の西尾栄太郎、これに蒲原の大岩妙太郎、久保田虎松らが続き、やがてこのあたり一帯が静岡県の削り節の中心地となった、と記されている。

 しかし、焼津ではそれより一足先に花かつおの生産が始まっていました。1914年(大正3年)東京で開催された大正博覧会には、焼津から多数の鰹節が出品され、八木徳太郎が金牌を受賞したのをはじめ十余名が受賞して、焼津の鰹節は一段と声価を高める。この博覧会を見学した清水善八は、同会場で実演中だった植山式鰹削り機を見ておおいに感心し翌年1915年には同機を購入して削り節の製造販売を開始、これが好評を博した。

 当時は鰹節の値段が高く、祝儀用で用いられるくらいで一般庶民が日常使うまでには至らなかった。惣田節、鯖節、鰯節など原料とする清水の削り節は価格も安く見た目にも美しく、町内だけでなく出荷先のどこでも好評であった。もっとも同年には清水の他にも焼津で削り節を製造するものが続き、「花かつお」と称されるこの新製品は焼津特産の一つとなる。

 なお、清水はその後1921年(大正10年)焼津駅前通りに削り節専門の新屋工場を設け、削り機10台を据えて大規模な生産に乗り出した。